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第2話 その名前だけは、忘れられない

last update publish date: 2026-09-19 11:41:07

第2話 その名前だけは、忘れられない

「なら、私と結婚しないか」

エイドリアン・ヴァレンタインは、天気の話でもするような落ち着いた声でそう言った。

私は返事をしなかった。

正確には、すぐには返事ができなかった。

婚約者の浮気現場を目撃してから、まだ一時間も経っていない。そのうえ共同口座から四万八千ドルが消えていたことまで判明し、ようやく一人になれたと思った途端、今度は世界的大企業のCEOから求婚されている。

今日という日は、どうやら私の人生に起きる予定だった面倒事を何年分かまとめて処理するつもりらしい。

私はカウンターの上に置かれた名刺をもう一度見た。

エイドリアン・ヴァレンタイン。

間違いない。

世界各国に拠点を持つヴァレンタイン・グループの現CEOであり、経済誌では「冷徹な改革者」「数字で企業を切る男」などという、本人が聞いたら喜ぶのか怒るのか分からない見出しを何度もつけられている人物だ。

そして私にとっては、そんな肩書よりも重い意味を持つ姓だった。

ヴァレンタイン。

十二年前、父の名前の隣に何度も印刷されていた企業名。

横領。

背任。

不正送金。

そうした言葉とともに、新聞にもニュースにも繰り返し登場した名前だった。

私は名刺から目を上げた。

「お断りします」

エイドリアンの眉がわずかに動いた。

今まで、彼の申し出をこれほど早く断った人間は少なかったのかもしれない。

「理由を聞いても?」

「聞く必要がありますか? 私はあなたと会って十分も経っていません。それ以前に、今しがた婚約を解消したばかりの女に、突然『結婚しないか』と持ちかける男性を信用するほど、私は精神的に追い詰められていません」

「合理的な判断だ」

「褒められても変わりません」

「褒めたつもりはない」

「そうでしょうね」

この男とは、話せば話すほど腹が立つ。

もっとも、腹が立つということは、それだけ相手の言葉を真面目に受け取っているということでもある。私はそれが気に入らず、残っていたウイスキーソーダを一口飲んだ。

エイドリアンは私を引き留めようとも、慌てて説明しようともしなかった。

「あなたは結婚そのものを拒否しているのか、それとも私との結婚を拒否しているのか」

「違いがあります?」

「大きい」

「では後者です。少なくとも今のところは」

「今のところ、か」

彼はその言葉だけ拾った。

私はすぐに言い返した。

「言葉尻を取らないでください」

「あなたが正確な言葉を使う人間に見えたからだ」

「人を数分観察しただけで分かったような顔をするのは、あまり趣味がよくありませんよ」

「分かったつもりはない。だから話をしている」

そこだけは、意外にまともだった。

私は再び座り直したわけではない。そもそもまだ椅子から完全に立っていなかっただけだ。そう自分に言い聞かせながら、バッグの持ち手から手を離した。

「それで、四十八時間以内に結婚しなければならないという話は何なんです?」

エイドリアンはすぐには答えなかった。

カウンターの向こうでは、バーテンダーが別の客のグラスに琥珀色の酒を注いでいる。氷の触れ合う硬い音がして、その向こうでピアノの生演奏が始まった。

このホテルにいる人間の大半は、今この男が見ず知らずの女に結婚を申し込んでいることなど知らない。

その事実が、妙に現実感を遠ざけた。

「祖父が半年前に亡くなった」

エイドリアンはようやく話し始めた。

声に悲しみはなかった。

少なくとも、表面上は。

「遺言には、ヴァレンタイン家が保有する持株の一部について条件が付けられている。私が三十五歳になるまでに法的な婚姻関係を成立させていなければ、その議決権は信託を経由して叔父へ移る」

「ずいぶん時代錯誤な遺言ですね」

「同感だ」

「だったら裁判で争えばいいでしょう。あなたほどの人なら弁護士を何十人でも雇える」

「争っている間にも取締役会は開かれる。叔父が議決権を握れば、現在進めている再編計画を止められる可能性がある」

「だから結婚するんですか」

「だから結婚する」

私は呆れて彼を見た。

少なくともダニエルは、結婚を愛情の延長として語っていた。

その男が浮気していたのだから、愛を語る人間が誠実だとは限らない。

けれど、目の前の男はその反対だった。

結婚を最初から経営上の手段として扱っている。

むしろここまで身も蓋もないと、騙される心配だけは少ないのかもしれない。

「恋人はいないんですか?」

「いない」

「婚約者候補は?」

「いる」

「いるんですか」

「一族が勝手に候補を作っているだけだ」

「その中から選べばいいでしょう。資産家の令嬢なら、あなたの家とも釣り合うでしょうし」

「だから選びたくない」

初めて、エイドリアンの言葉に少しだけ感情が混じった。

嫌悪というほど強くはない。

だが明確な拒絶だった。

「一族が用意した女性と結婚すれば、その女性の家族まで経営に入り込む。私は議決権を守るために結婚するのであって、新しい勢力を取締役会へ招き入れたいわけではない」

「なるほど。だから、あなたの会社にも財産にも食いつきそうにない、身元の分からない女をその場で拾うことにした、と」

「身元が分からないとは思っていない」

「どういう意味です?」

「あなたはエレナ・ハート。二十九歳。ハート&モリス会計調査事務所のシニア・フォレンジック・アカウンタント。企業不正と資産隠匿の調査を専門にしている」

私はグラスを置いた。

今度は、さっきまでとは別の理由で身体が強張った。

「調べたんですか?」

「ここへ来る前から知っていたわけではない」

「では、いつ?」

「あなたがダニエル・ロスと話していた間だ」

「数分で?」

「名前が聞こえた。秘書に確認させた」

あまりにも当然のように言われ、しばらく腹を立てるべきか呆れるべきか迷った。

「普通、人の名前を聞いたからといって秘書に身元調査をさせません」

「普通の人間ならな」

「自分が普通ではないことを自慢しているんですか?」

「事実を説明している」

本当に面倒な男だ。

だが、その数分間で彼が知ったことは、表向きの経歴だけなのだろう。

もし父の件まで把握しているなら、こんなふうに平然と私へ結婚を申し込むだろうか。

いや。

この男なら、それすら材料にする可能性がある。

私は慎重に尋ねた。

「私について、ほかに何を調べました?」

「今の時点ではその程度だ。犯罪歴なし。重大な債務なし。政治活動歴なし。勤務先で懲戒歴もない」

「結婚相手を選ぶというより、企業買収前のデューデリジェンスですね」

「似たようなものだ」

「今の発言で断る理由が一つ増えました」

「だが、あなたはまだ帰っていない」

図星だった。

私は一瞬、言葉に詰まった。

帰るべきだ。

常識的に考えれば、それ以外の選択肢はない。

ところが椅子から立ち上がることができない理由も、自分では分かっていた。

ヴァレンタイン・グループ。

父の事件。

十二年前から、何度調べても手に入らなかった内部資料。

当時の監査報告書も、送金承認記録も、取締役会資料も、外部に公開されたものしか見ることができなかった。

父は最後まで無実を訴えていた。

「俺は盗んでいない」

その言葉だけは、今でも鮮明に覚えている。

当時十七歳だった私は、何もできなかった。

父が家へ帰ってきても、電話は鳴り続けた。

学校では名字を見ただけでひそひそ話をされた。

家の前には記者が集まり、母はカーテンを閉めたまま泣いていた。

父は日に日に口数が減った。

そして事件が公になってから半年後、父は車の事故で亡くなった。

警察は事故と判断した。

私たちも、それを受け入れるしかなかった。

ただ、父の死によって疑惑が消えたわけではない。

世間ではむしろ「横領を認める前に死んだ男」という印象だけが残った。

私はそれが許せなかった。

だから今の仕事を選んだ。

数字は、人間の噂より正直だと思ったからだ。

帳簿を追えば、本当に金を動かした人間へたどり着ける。

そう信じてきた。

それでも、ヴァレンタイン・グループの壁だけは越えられなかった。

私はカウンターに置かれた名刺へ指を伸ばした。

厚みのある紙だった。

そこに刻まれた社名を親指でなぞる。

エイドリアンが私を見ている。

「気が変わったか?」

「まだです」

「では、何を考えている」

「あなたがどうして私なのかを考えています」

「説明したはずだ」

「不十分です。未婚で、自立していて、財産に執着がなさそうな女性なら、この街だけでも何千人といるでしょう。それなのに、あなたは初対面の私に結婚を申し込んだ。合理性を重視する人の判断としては雑すぎます」

エイドリアンは少し黙った。

今度は私が彼を観察する番だった。

この男は、質問されたときに無意識に口元を触ったり、目を逸らしたりはしない。考えるときはむしろ動きを止める。その静けさが、逆に何かを選別していることを伝えてくる。

「あなたは、婚約者に裏切られた直後だった」

「それが何です?」

「普通なら感情的になっても不思議ではない場面で、あなたは証拠を押さえ、共同口座の問題を切り分け、相手の女に責任がない可能性まで判断していた」

「見ていたんですね」

「見えていた」

「細かい違いに聞こえません」

「さらに言えば、あなたは元婚約者に自分の欠点を指摘されたとき、否定しなかった。しかし、浮気の責任と自分の欠点を混同することも拒んだ」

私は黙った。

人に見られているつもりのない場面をそこまで分析されていたと思うと、少し居心地が悪い。

「それで?」

「感情がない人間ではなく、感情に支配されない人間が必要だった」

「それは褒め言葉として受け取っておきます」

「好きにしろ」

「ただし一つ訂正します。私は財産に興味がないわけではありません。お金は重要です。家賃も税金も、理想論では払えませんから」

「むしろ安心した。金に興味がないと言い切る人間のほうが信用できない」

そこは少しだけ意見が合った。

私は笑いそうになり、それを飲み込んだ。

この男に親近感など持ちたくない。

「結婚期間は?」

「一年」

「一年?」

「三百六十五日。必要な手続きを終えたあと、双方が望めば離婚する」

「双方が望めば、ですか?」

「そこは契約書で調整できる」

その言い方に、何か引っかかった。

「今の段階で離婚するつもりがない可能性まで考えているんですか?」

「将来の感情の話ではない。法的な表現の話だ」

「あなた、本当に恋愛には向いていませんね」

「その点については否定しない」

即答されたため、私は思わず鼻で笑った。

ひどい一日だったのに、その瞬間だけは少し肩の力が抜けた。

それが悔しくて、私はまた名刺へ目を落とした。

「契約結婚だとして、私には何を求めるんです?」

「公の場で妻として振る舞う。必要な社交行事には同伴する。一族の前では夫婦関係に疑いを持たせない。私生活には互いに干渉しない」

「寝室は?」

「別だ」

「恋愛関係もなし?」

「必要ない」

「子どもは?」

「求めない」

「随分はっきりしていますね」

「曖昧にして問題が起きるほうが面倒だ」

「同感です」

そこまで聞くと、ただの狂気じみた求婚だったものが、少しずつ契約としての輪郭を持ちはじめる。

だからといって受けるつもりになったわけではない。

ただ、私は職業柄、条件が見えない取引より、条件が明文化された取引のほうを好む。

「報酬は?」

エイドリアンは私を見た。

「やはり金には興味があるらしい」

「当然でしょう。あなたのために一年間、時間と自由を売るんです。無償で引き受けるほど慈善精神はありません」

「一千万ドル」

聞き間違えたかと思った。

「一千万?」

「税引前だ。必要なら税務面の処理はこちらで用意する」

「……桁を間違えていません?」

「間違えていない」

私は思わず笑ってしまった。

呆れたとき、人は本当に笑うのだと今日二度目の発見をした。

「一千万ドル払ってまで結婚するくらいなら、叔父さんと経営権を争ったほうが安く済むんじゃありませんか?」

「その程度なら安い」

さらりと言われた。

世界の違いを感じるには十分だった。

私が四万八千ドルを巡って元婚約者に弁護士を入れようとしている横で、この男は一千万ドルを「その程度」と言う。

腹立たしいほど金持ちだった。

「その金額なら、もっと従順な女性を雇えますよ」

「従順な妻は必要ない」

「普通は契約結婚なら、そのほうが扱いやすいでしょう」

「一族の人間は馬鹿ではない。何を言われても笑っているだけの女なら、一週間で偽物だと見抜かれる」

「私なら喧嘩を売りそうだから本物に見えると?」

「少なくとも私に媚びる様子はない」

「まだ知り合って三十分も経っていないのに、よく分かりましたね」

「十分だった」

妙な確信だった。

私は眉をひそめたものの、否定できなかった。

たしかに今のところ、媚びる理由は一つもない。

むしろ、彼がヴァレンタイン姓であることを考えれば、好意的に接するほうが難しい。

そのとき、エイドリアンの携帯電話が震えた。

彼は画面を確認すると、短く「失礼」と言って電話に出た。

「どうした」

相手の声は聞こえない。

ただ、エイドリアンの表情がわずかに険しくなった。

「分かった。叔父には予定通りだと伝えろ。取締役への連絡はまだするな。……いや、明日の朝でいい。私は今、候補と話している」

候補。

私は思わず彼を睨んだ。

電話を切ったエイドリアンに言う。

「人を求人票みたいに呼ばないでください」

「事実だ」

「少なくとも本人の前では言い方を選ぶものです」

「では、結婚相手候補」

「長くしただけでしょう」

今度こそ、彼の口元に明確な笑いが浮かんだ。

ほんの一瞬だった。

それだけで、この男にも人間らしい表情があるのだと知ってしまい、私は少し困った。

冷酷な男でいてくれたほうが、ずっと扱いやすい。

「時間がないというのは本当なんですね」

「明後日の正午が期限だ」

「それを過ぎると?」

「信託の条件が発動する」

「結婚届を出せばそれでいい?」

「法的な婚姻が成立していることが条件だ」

私は頭の中で整理した。

一千万ドル。

一年間。

形式上の妻。

公の場では夫婦を演じる。

私生活は別。

そして相手はヴァレンタイン・グループのCEO。

ここまでなら、異常ではあるが単純な契約だ。

問題は、私にとってヴァレンタイン・グループが単なる企業ではないことだった。

もし妻になれば、私はこの男の生活圏へ入れる。

社内の人間とも接点ができる。

一族とも会える。

公開資料では見ることのできない情報へ近づける可能性もある。

そこまで考えた瞬間、自分の思考に嫌悪を覚えた。

私は今、父のために結婚を利用しようとしている。

たった数十分前まで、ダニエルに「浮気の責任を私の欠点と混同するな」と言ったばかりなのに、今度は自分が別の目的を隠して誰かとの結婚を考えている。

正しいかと問われれば、胸を張って正しいとは言えない。

だが、十二年だ。

十二年間、私は答えを探してきた。

父の事件について何度も情報公開請求をし、当時の関係者を探し、古い裁判資料を読み、元社員にも接触した。

それでも核心には届かなかった。

目の前に、その扉を開ける可能性がある男が座っている。

機会とは、もっと立派な顔をして現れるものだと思っていた。

実際には、婚約者に裏切られた夜のホテルバーで、感じの悪い億万長者の姿をして現れるらしい。

「エレナ」

名前を呼ばれ、私は顔を上げた。

初対面の男に名前で呼ばれることに一瞬違和感があったが、訂正する気にはならなかった。

「黙り込むほど不快な提案なら、ここで終わりにしていい」

予想外の言葉だった。

私はてっきり、もっと強引に押してくると思っていた。

「引き留めないんですか?」

「契約は双方が納得して結ぶものだ。嫌がる人間を妻にしても、一年も持たない」

「ずいぶんまともなことも言えるんですね」

「普段から言っている」

「自己評価と他人の評価は一致しないものですよ」

「あなたの評価にはまだ興味がない」

「まだ?」

また言葉尻を拾いたくなったが、今度はやめた。

エイドリアンは財布から紙幣を取り出そうとしたので、私は先に自分のグラス代をカウンターへ置いた。

「私の分は自分で払います」

「そのくらい払える」

「知っています。でも、まだあなたに何も買われていませんから」

彼の手が止まった。

私は自分でも、少し言い過ぎたと思った。

しかし謝らなかった。

エイドリアンも怒らなかった。

代わりに、どこか興味深そうに私を見る。

「一千万ドルでも買われないと?」

「お金で買えるのは一年分の役割だけでしょう。少なくとも、そういう契約のはずです」

「その認識でいい」

その答えを聞いて、私は決めた。

結婚するかどうかではない。

少なくとも、話を聞くことを。

今日すぐに何かへ署名するつもりはない。

父のことも、まだ話さない。

この男がどれほど信用できるのかも分からない。

それでも、逃げるように帰宅して、明日の朝また同じ毎日へ戻ったら、この機会を一生考え続ける気がした。

私は名刺を手に取った。

「一つ、確認しても?」

「何だ」

「あなたの妻になった場合、ヴァレンタイン・グループの施設や本社へ入る機会はありますか?」

エイドリアンの目がわずかに細くなった。

質問が具体的すぎたことに、自分でも気づいた。

「当然ある。社内行事もあるし、財団の催しもある」

「あなたの仕事について、妻が一切知ってはいけないという条件は?」

「機密情報を勝手に持ち出すことは認めない。それ以外は契約書次第だ」

私は頷いた。

胸の奥で、十二年前の記憶がまた動き始める。

新聞の見出し。

閉ざされたカーテン。

父が食卓に置いたまま、ほとんど手をつけなかった夕食。

そして、事故の知らせを受けた母の顔。

忘れたことなど一度もない。

たとえ、この男が父の事件と無関係だったとしても。

ヴァレンタイン家の中へ入れる機会など、もう二度と来ないかもしれない。

私はエイドリアンをまっすぐ見た。

「さっきの返事を訂正します」

「結婚するのか?」

「そこまでは言っていません。あなた、都合よく話を進めすぎです」

「では何を訂正する」

私は手の中の名刺を裏返した。

白い裏面には何も書かれていない。

十二年前の答えも、もちろんそこにはない。

だから、自分で探すしかない。

「条件を聞かせてください。全部です。あなたが私に求めることも、私が要求できることも、一年間の生活も、契約終了後のことも。曖昧な部分を残したまま結婚する気はありません」

エイドリアンは私をしばらく見つめたあと、携帯電話を取り出した。

「明日の午前九時は空いているか?」

「十時半から仕事があります」

「では七時半」

「朝食より早く契約結婚の話をするんですか?」

「あなたは時間を無駄にするのが嫌いそうだ」

「あなたほどではありません」

彼は電話を操作しながら告げた。

「七時半。ヴァレンタイン・タワー最上階の会議室。弁護士を同席させる」

「私も自分の弁護士を連れていきます」

「当然だ」

その返事は、少しだけ気に入った。

少なくとも、契約書を読ませずに署名させるような男ではないらしい。

私は席を立った。

「今夜はこれで帰ります」

「送らせる」

「結構です」

「さっき婚約を解消した男が追ってくる可能性は?」

私は立ち止まった。

ダニエルならあり得る。

ただ、それをエイドリアンに心配されるのは妙に癪だった。

「自分で帰れます」

「能力の話はしていない。安全性の話だ」

「……運転手だけなら、お言葉に甘えます」

「分かった」

彼はそれ以上、勝ち誇るようなことも言わなかった。

それがかえって助かった。

ホテルの玄関へ向かう途中、私はガラス越しに夜の街を見た。

さっきまで、三か月後に結婚する予定だった。

今は、その結婚はなくなった。

そして明日の朝には、別の男との結婚契約について弁護士を交えて話すことになっている。

人生とは、計画通りに進まないにもほどがある。

ただ一つだけ、はっきりしていた。

エイドリアン・ヴァレンタインとの結婚に愛情はない。

少なくとも今は。

彼は会社を守るために私を利用しようとしている。

そして私もまた、父の名誉を取り戻すために彼を利用しようとしている。

公平ではある。

綺麗ではないけれど。

ホテルの玄関前に黒い車が止まり、運転手が後部座席の扉を開けた。

乗り込む直前、私は振り返った。

ロビーの奥には、まだエイドリアンが立っていた。

彼は私を見送っていたわけではないのかもしれない。ただ電話をかけるためにそこへいただけなのかもしれない。

それでも一瞬だけ、目が合った。

私は車へ乗り込んだ。

扉が閉まると、街の音が遠のいた。

膝の上には、エイドリアンの名刺がある。

その表面に刻まれた「VALENTINE GROUP」の文字を見つめながら、私は胸の中で父へ問いかけた。

もし、この家の中にあなたを陥れた人間がいるのなら。

私は、どこまで行けばいいのだろう。

答えは返ってこなかった。

代わりに携帯電話が震えた。

画面には、ダニエルからの着信が表示されている。

私は数秒見つめたあと、拒否を選んだ。

すると間を置かず、今度はメッセージが届く。

『エレナ、話し合おう。四万八千ドルのことも説明する。あの男は誰だ?』

最後の一文を見た瞬間、指が止まった。

どうしてダニエルが、エイドリアンの存在を知っているのだろう。

私は車窓の向こうへ目を向けた。

ホテルはすでに遠ざかり始めている。

そして、もう一通。

『お前、ヴァレンタインに近づくつもりなのか? やめたほうがいい。あの家には関わるな』

心臓が、一度だけ強く鳴った。

ダニエルは知っている。

少なくとも、何かを。

私はすぐに電話をかけ直しかけて、指を止めた。

さっきまでなら、理由も聞かずに切っていただろう。

けれど今は違う。

明日の朝、私はヴァレンタイン家へ一歩近づく。

その前に確かめるべきことが増えた。

なぜダニエルは、あの家に関わるなと言ったのか。

そして、彼が共同口座から持ち出した四万八千ドルは、本当にただの投資資金だったのか。

私はメッセージを保存し、スクリーンショットを取った。

感情より証拠。

それが私のやり方だ。

けれど今夜初めて、そのやり方が自分自身の人生を、とんでもなく危険な場所へ連れていく気がした。

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    第22話 一泊だけの出張なのに、夫と同じ部屋しか残っていませんでした 父を横領犯にした十九件を、私はその日のうちに見なかった。 正確には、見せてもらえなかったわけではない。正式な再調査の中で、外部チームが送金元、承認端末、本人認証、取引先との関係を整理したうえで確認することになり、私もそれに従った。 以前の私なら、夜中まで資料室に残る方法を考えたかもしれない。 今は、一度屋敷へ帰って眠った。 翌朝も普通に起きた。 そして午前六時半、私はエイドリアンと一緒に空港へ向かっていた。「どうして、このタイミングで出張なんでしょうね」 車の窓からまだ薄暗い街を眺めながら言うと、隣のエイドリアンはタブレットから目を上げなかった。「三週間前から決まっていた」「その三週間で人生が変わりすぎたんです」「私もだ」「あなたの場合、自分で変えた部分がかなりありますけど」「結婚のことか」「ほかに何があるんです」「会社の内部調査も拡大した」「それは私だけの責任じゃありません」「責めていない」 言いながら、彼はタブレットを閉じた。 今日の出張先は、ヴァレンタイン財団が支援する地方医療施設と、グループが投資している再生エネルギー関連企業だった。 本来ならエイドリアン一人で出席する予定だったが、結婚発表直後という事情から「夫妻での公式訪問」へ変更された。 私にとっては月六回までと定めた共同公務の一回に当たる。「財団施設での挨拶は何分くらい?」「一時間半」「投資先は?」「二時間」「夕方の記者対応」「三十分」「それで終わり?」「ああ」「なら今日中に帰れません?」「最終便に間に合わない」「チャーター機」「使える」「では使いましょう」「使わない」

  • 『離婚まで365日、冷徹CEOは私を愛さないはずでした』   第21話 父を横領犯にした調査報告書に、同じ時刻の矛盾がありました

    第21話 父を横領犯にした調査報告書に、同じ時刻の矛盾がありました 三か月前、ヴィクター・ヴァレンタインは父が残した例外承認書の画像を見ていた。 その事実が分かった朝、私はコーヒーを半分残したまま、ダイニングの時計を見た。「十五分経ちました」 向かいに座るエイドリアンが言う。「まだ電話しないのか」「あなたが三十分は長いと言ったので、十五分にしたんでしょう」「十五分経った」「質問の順番を確認しています」「叔父に聞くだけだ」「あなたに任せると最初の質問が『なぜ黙っていた』になるからです」「問題があるか?」「あります」「なぜ」「怒っている人が最初に『なぜ』と聞くと、大抵その後の答えを聞かなくなるから」 エイドリアンが不満そうに眉を寄せた。「お前は聞くのか」「私は怒りながら聞く訓練を仕事でしています」「自慢になるのか、それは」「職業技能です」 マーカスが少し離れた位置で、何も聞いていない顔をしている。 私は紙へ書いた五つの質問を見直した。 一、三か月前にVeritas Vaultへアクセスした事実を認めるか。 二、なぜアクセスしたか。 三、サミュエルと同時期にアクセスした理由。 四、何を確認したか。 五、なぜ昨夜その事実を話さなかったか。「これで」「ようやくか」「あなたは最初の五分、黙っていてください」「なぜ私が」「約束してください」「嫌だ」「信用点を下げます」「それを交渉材料にするな」「効いてるじゃないですか」 エイドリアンが黙った。 勝ったと思う。 たぶん。     ◇ ヴィクターは電話にすぐ出た。『朝から二人揃ってとは

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